人間の脳は年齢を重ねるごとに次第にその機能が低下するため、日常生活の中でも加齢に伴う物忘れを感じることがしばしばでてきます。これは脳の老化が原因であり、誰にでも起こり得る現象で、必ずしも病気とは言えないことがあります。他方、認知症という病気では、いろんな原因で脳の神経細胞が過度にダメージを受けるため、生理的な老化現象を超える病的な物忘れをきたすようになります。よく言われる「記憶障害や記憶力低下」は、認知症の中心的な症状ですが、病状が進行してしまうと体験そのものを覚えていないこともあります。さらに時間や場所、人物など常識的な状況把握能力(=見当識)も障害されるようになると、日常生活や社会生活に支障をきたすようになります。通常、我々の記憶力は20代をピークに加齢と共に減退していくと考えられており、60歳頃になると記憶力の低下に加えて、判断力や適応力の衰えも徐々に併発するようになります。そのため、ある程度に年齢を重ねると加齢に伴う物忘れと認知症の初期症状としての物忘れを、簡単に区別できない状況も起こってくるのです。
「何かおかしい」と思ったときに早期に対処することが記憶障害をきたす病気の早期発見につながったり、その後の認知症の発症を未然に防ぐことにつながったりします。物忘れの要因や原因を把握することが、その後の治療への道筋をつけ、本人そしてご家族の不安の解消につながっていくことあります。認知症に関する新しい情報は日々蓄積され、治療も進歩していますので、物忘れにて認知症のことを心配されている方々は、ぜひ専門の医療機関にご相談してみてください。
記憶のメカニズムおよび記憶障害について
我々は普段、目・耳・鼻・皮膚といった感覚器からさまざまな情報を取り込み、取り込んだ情報を必要に応じて思い出しながら生活しています。情報が脳に取り込まれ保持され、意識や行為のなかで再生される、この一連の働きを「記憶」と呼びます。
視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚から入力した情報を記憶する場合には、以下の3段階のステップが必要です。
1.新しい情報として覚えこむ「記銘」
2.覚えた情報を記憶として保ち続ける「保持」、
3.保持していた情報を必要に応じて思い出すこと「想起(再生)」
感覚器から取り込まれた情報は、まず脳のなかの海馬という部位で記銘されますので、海馬は記憶という脳機能では最も重要な役割を果たしていることになります。さらに、海馬では感覚器から取り込まれる膨大な量の情報を必要なものと不必要なものに分け、必要な情報は大脳皮質に移動して保存・貯蔵しているのです。よく知られているアルツハイマー病ではこの海馬が初めに障害されるため、新しい情報を記銘することができなくなりますが、病気を発症する前の情報は大脳皮質に保存されていることが多く、病状が進行していない限りは昔のことをよく覚えているのです。このように、記憶とは過去の経験や学習内容を保持し、必要に応じて再現する脳の機能ですが、これは単なる情報の保存だけではなく、思考や行動にも影響を与える重要なプロセスと言えます。しかし、この大切な記憶機能も、さまざまな原因・要因によっては、新しい出来事を覚えることができなかったり、覚えてもすぐに忘れたり、あるいは体験した過去の出来事を思い出せなかったりする記憶障害を呈することがあります。すなわち、記憶障害は記銘→保持→想起という3つのステップのいずれかの段階で、関連する神経細胞が正常に働かなくなるために起こってきます。例えば、加齢や老化による物忘れは、蓄えていた記憶を再び想起・再生する働きが衰えていきますので、思い出すまでに時間がかかったり、あるいは詳細は覚えていなくてもヒントがあれば思い出すことができたりします。具体的には「財布をしまったこと」や「友達と食事の約束をしたこと」などは覚えているのですが、体験の一部を思い出せないため、財布をどこにしまったのか、あるいは明日だと思っていた約束が今日だったといった経験は、皆さんの中にも思い当たる方がおられるのではないでしょうか。
歳をとると誰にでも起こる物忘れと、認知症の物忘れの違いは?
物忘れが増えてくると、「もしかしたら自分は認知症かも…」と不安に思う方がおられますが、生理的な物忘れは正常な脳の老化であらわれる反応です。年を重ねると筋肉量や運動機能が落ちるように、脳の機能も落ちていきます。したがって、加齢とともに物忘れが増えるのは、ある程度はしかたのないことだと思います。但し、加齢に伴う脳の老化現象と認知症という病気との移行段階では、明確な境界線があるわけではありませんので、生理的な物忘れなのか、それとも病的な認知症の範疇に入るものなのかを明らかに区別することが難しい例も出てくるようになります。ここからは、比較的典型的な認知症の物忘れについて具体例を提示していきます。
先ほども述べましたが、老化現象に伴う物忘れでは記憶を想起・再生する能力が衰えていくのですが、典型的なアルツハイマー型認知症では物事を新しい情報として覚えこむ記銘力が障害されることが特徴になります。つまり、「約束をしたことを覚えていない」「印鑑をしまったことを忘れる」と言うように、記憶の初期段階での記銘ができなくなるため、出来事や体験そのものを覚えていない状態が多々生じてきます。患者さん自身は、その出来事の記憶がありませんので「約束なんかしていない」とか、「印鑑がなくなった、誰かに盗まれた」と怒ったりすることも生じてくるのです。また、認知症では同じことを何度も尋ねることがよくありますが、本人にとっては同じことを尋ねている感覚がありませんので、初めて尋ねているかのように振舞っていることは、理に叶った言動ということになります。
代表的な認知症の初期症状
認知症の初期段階にはさまざまな兆候が現れ、少しずつ日常生活に影響が及んできます。健忘や物忘れ、あるいは記憶力低下が生じた場合には、それが加齢に伴うものなのか、それとも認知症によるものなのかを判別することが難しいケースもありますが、具体的な症状例を知っておくことで病気の早期発見のきっかけにはなると思いますので、ここでは代表的な初期症状をいくつか紹介していきます。
- 何度も同じことを言ったり、聞いたりする
- 物の名前が思い出せなくなった
- しまい忘れや置き忘れが多くなった
- 財布やクレジットカードなど、大切な物をよく失くすようになった
- 時間や曜日、場所の感覚が不確かになってきた
- 物事を判断したり理解したりする力が衰えてきた
- 慣れている場所なのに道に迷った
- 食事をしたことを忘れ、再度食事を要求・催促する
- お金や薬の管理ができなくなった
- トイレの失敗をするようになった
- 財布を失くしたり、盗まれたと言って騒ぐことがある
- 以前好きだったことや、趣味に対する興味が薄れた
- 鍋を焦がしたり、水道を閉め忘れたりが目立つようになった
- 料理のレパートリーが極端に減り、同じ料理ばかり作るようになった
家族や身近な人に上記のような発言や言動あるいは行動などが見られた時には、いわゆる認知症の初期段階の可能性がありますので、注意しながら見守っていきましょう。
なお、「物忘れの患者さんの外来診療」においては、問診や診察はもちろんですが、患者をよく知る周囲からの聞き取り情報がとても大切です。周囲の方が患者の状況を十分に把握している場合には、認知症の判断は比較的容易となり、また判断材料のひとつとして受診時の状況にも有用な情報が含まれています。つまり、家族に付き添われて受診している場合には認知症であることが多く、患者さんだけで来院した場合は認知症までは至っていないことが多いようです。さらに、認知症の診療には時間がかかりますので、あらかじめ用意した問診票を渡し、診察を待つ間に細かな情報を記載してもらうことがあります。また、家族が同伴している症例では、時に患者さんの前では話しづらい内容が含まれることがありますので、患者さんが検査で席を外した際に家族から重要な情報を得ることありますので、ご家族同伴での受診がお勧めです。
頻度の多い認知症
認知症にはいくつかの種類がありますが、主なものとしてアルツハイマー型認知症、脳血管型認知症、レビー小体型認知症が挙げられます。このうち約50~60%はアルツハイマー型認知症で、約20%は脳血管型認知症によるものとされています。
アルツハイマー型認知症
アルツハイマー型認知症は女性に多く、初期症状は物忘れなどの記憶障害が特徴的で、直前に起きたこともすぐに忘れてしまいます。また昼夜や日時、季節の取り違えが見られたり、場所(トイレ)の認識も難しくなり、なじみの場所でも道に迷ってしまします。さらに、ものごとを計画立てて順にこなすこともできず、着替えや道具の使い方もわからなくなります。さらに財布を置き忘れたことを盗まれたと認識する“物盗られ妄想”は有名です。
脳血管性認知症
脳血管性認知症はアルツハイマー型認知症に比べ男性に多く、脳梗塞や脳出血などの脳卒中後遺症の方に起こってくる認知症です。できることとできないこのとの差が大きい“まだら痴呆”と呼ばれます。しかも症状の変動が大きく、症状に対しては十分な認識もあるので、抑うつや怒りあるいは投げやりな態度になりやすい特徴があります。
レビー小体型認知症
レビー小体型認知症は認知症全体の約1~2割を占め、男性に多い傾向があります。他の認知症と同じように物忘れなどの記憶障害などが主体に現れますが、その他にパーキンソン症状(動作緩慢・振戦・前かがみ歩行など)や幻視あるいは睡眠中に大声を出し暴れるなど、寝ぼけたような異常な行動(レム睡眠行動異常)など特有の症状をきたすことがあります。
手術で治る特殊な認知症
認知症の治療は薬剤が中心となりますが、その中には手術で治る特殊な認知症があります。
慢性硬膜下血腫
頭を打った後などに脳と頭蓋骨の間に少しずつ血液がたまってくる病気で、溜まった血液で脳が圧迫を受けて認知症が増悪したり、今までなかった麻痺や歩行困難などの症状が出てきます。溜まった血液を手術で取り除くことで認知症を含む症状が劇的に改善します。
正常圧水頭症
何らかの原因で脳の中に脳脊髄液(髄液)が過剰に溜まってしまい、認知症や歩きづらさ、尿漏れ(失禁)などの症状が出る病気です。溜まった髄液を脳の外に逃がす迂回路手術(シャント手術)で症状が改善する可能性があります。
軽度認知障害(MCI)について
アルツハイマー型認知症では認知症になる一歩手前の移行期があって、この段階を軽度認知障害(MCI)と呼んでいます。この軽度認知障害(MCI)という概念は、認知症の早期発見、早期治療の重要性が知られるようになったことで生まれた概念です。すなわち、脳の機能が健常な状態と認知症との中間に位置する状態を軽度認知障害(MCI)と判断しますが、患者自身やご家族には物忘れの自覚や認識があります。さらに実際に記憶や判断などを行う認知機能もいくらかは低下しているのですが、日常生活には支障がない認知症の前段階を表しています。本邦においては、65歳以上の方では軽度認知障害(MCI)の割合が15~25%と推定されているのですが、患者さん自身は軽度認知障害(MCI)であることに気づかれないままで過ごされている方もいます。軽度認知障害(MCI)の方では、病状が緩徐に進行して認知症に移行する危険性が心配されますが、一方では軽度認知障害(MCI)の段階で適切な介入を行えば、認知症への移行を遅らせることができたり、あるいは原因によっては元の状態に回復したりする可能性も出てきます。一般に認知症という段階まで病状が進行してしまうと、障害された認知機能が元の状態まで回復することが難しくなりますので、認知症の前段階でとされる軽度認知障害(MCI)という病態が、認知症への移行・進行を食い止める「最後の砦」となるのです。
軽度認知障害(MCI)の原因・要因
軽度認知障害(MCI)の背景因子としては、アルツハイマー病などの認知症を引き起こす神経変性疾患が最も多く、それ以外には脳血管障害、頭部外傷、水頭症、うつ病、ビタミン欠乏や甲状腺ホルモン異常、過度なストレス、薬の副作用なども、その原因として知られています。もし、軽度認知障害(MCI)の原因がアルツハイマー病であるならば、認知症へと進行する確率が高いことも指摘されていますので、いかにアルツハイマー病に伴う軽度認知障害(MCI)を早く見つけ出し、適切な対応を行うかが認知症への移行を妨げるカギになってきます。
軽度認知障害(MCI)からアルツハイマー型認知症への移行
アルツハイマー病による軽度認知障害(MCI)とは、アルツハイマー型認知症になる一歩手前の段階を示す概念ですが、症状としては記憶障害が中心であり、以前に比べて物忘れが多くなってきていることを患者さんやその家族も認識しています。また、記憶障害以外にも、新しい家電の使い方を覚えるのに時間がかかったり、買い物や家事など少し複雑な動作が難しくなってきますが、自立した生活を送れる状態は変わっていません。通常、アルツハイマー病による軽度認知障害(MCI)から認知症へ進展する割合は年間におよそ10%と言われており、数年間では約半数近くの方がアルツハイマー型認知症に移行すると推測されています。他方、軽度認知障害(MCI)の方では、年間に約20%の方が以前の健常な状態まで回復するとも報告されており、認知症の初期段階においては認知機能レベルの変動が生じていることを示しているようです。したがって、アルツハイマー病による軽度認知障害(MCI)という病態を把握することは、その後に適切な対応や予防策を導入することで認知症への移行を防ぐことにつながると思われます。
認知症への進行・移行を防ぐためにできることは?
元々、認知機能というのは加齢に伴って低下していきますので、軽度認知障害(MCI)から認知症への移行を防ぐためには、「加齢を加速させる要因を減らす」ことも大切です。
例えば、高血圧や糖尿病などの生活習慣病は、血管の老化ともいえる動脈硬化を進め、認知症のリスクを高めることが知られています。また、減塩を含めたバランスの良い食生活や運動習慣は極めて大切ですが、高齢者の場合には他にも病気を抱えていたり、薬を飲んだりしていることが多く、食事や運動に関して個別のアドバイスが必要となることもあります。どのような対策が望ましいのか、かかりつけ医とよく相談することが必要かもしれません。このほか、タバコや過剰なアルコール摂取も認知症のリスクを高めるとされています。アルコールに関しては、認知機能低下の直接的な原因になることもあり、原因によっては断酒することで認知機能が回復するケースもあります。
また、「脳トレ」に取り組む、趣味に打ち込むといった知的活動も効果的だと考えられています。自主的に楽しく行えるものを見つけるとよいでしょう。地域の活動に参加する、友人と定期的にコミュニケーションを取るなど、社会活動への参加や対人交流も大切です。その際には、難聴があるとコミュニケーションの妨げになるほか、難聴は認知症のリスク因子であることも分かっています。聞こえが悪い場合は耳鼻咽喉科を受診し、早めに補聴器を使うなど対策を始めることも大切です。
また認知症の初期症状としては、直近の出来事を忘れてしまうことが増えたり、新しいことを覚えられなくなる特徴もあります。当てはまるような言動や行動がみられる場合には、地域包括支援センターに相談してみるのも一案です。地域内の介護や福祉の相談窓口である地域包括支援センターは、介護保険の申請窓口にもなっています。軽度認知障害(MCI)の段階では日常生活に大きな支障がないため、介護保険の対象となることは考えにくいですが、誰でも参加できる健康体操講座など、健康維持や社会活動のきっかけになるような情報を教えてくれるかもしれませんので、状況に合わせてご相談されてください。